家に帰ってきたので、更に編集だ。(上記で致命的なところが間違っていたが直しておいた。)


 漫画の殿堂の問題は、そりゃあたくさんある。
 まず補正予算という緊急のために組んだ予算でなぜ博物館の予算なのかという根本的な疑問、これは民主党のひとが公開質問でぶつけていた内容でなかなかの鋭さがある内容だと思った。(ちなみに自分は民主党は基本役立たずだと思っている、あしからず)
 政府主導とはいえ、麻生さんが漫画が好きだからという理由にしか見えないこの人気取りまがいの予算配分は納得しにくいのはまちがいないだろう。
 コレに平行するけど、突然立ち上げたために、その意義の浸透があまりのも薄弱であること。何でこのタイミングで漫画なのかってのは正直疑問であった。
 日本の政府ってのは基本的に文化に対して全然啓蒙していない、啓蒙がうまくいっていないことはよくわかっていたけれども、その矛先の第一弾が漫画というのに非常に疑問だったりもすることもある。


 もう少し詳細を調べていろいろ突っ込みどころを増やすのもありなんだけど、さしあたってやくみつる氏の必要ないという理由は「漫画やアニメは低俗な無くなってもいいもの、文化ですらなく、それに関わっている奴もゴミ、残す必要性のあるものはなにもない。」ということだけはひしひしと感じることが出来た。


 突っ込みどころがありすぎて、録音した音源があったら15分に満たない内容だと思うがそれを聴いて突っ込みを入れるために止まっていたら軽く2時間は費やせるいい娯楽になることは間違いない。


 漫画もアニメも文化である
 なぜ下劣と扱うかに関しては、多分にやくみつる氏の扱ういわゆる「残す価値のない10000の書物があったら10000番目に読むべき駄文の書かれた漫画」、と自身の漫画を評価していないところから来るのではないかと類推する。
 ま、彼の漫画に対して確かに芸術性を感じたりすることは自分もないが、他方でアニメ、漫画というのは印刷されているとはいえ、頒布されているものだとはいえ、れっきとした著作物であり、特に日本の漫画は「きれいな男の子」や「かわいい女の子」、「無敵のヒーロー」が出てくるだけのありきたりの浅薄な内容のものだけではなく、様々な視点から捉えられる子供向けではないすばらしい読み物もたくさんあるのが特徴。
 中には芸術性の高いものもあり、「ヒカルの碁」、「naruto」のその美しさたるやびっくりするものも見たことがある。
 小畑(「ヒカルの碁」の作者)の原画の前で涙流して感動している女性を見たとか見ないとか言う話をみたぐらいで、別にそれは何の不思議もないことだと自分は思う。


 少なくとも自分は、ロダンの女性の彫刻を見るぐらいにはびっくりはさせてもらった。
 ロダンの彫刻と比べるのは、言語道断だという話もあるだろうが、衝撃の大きさはそのぐらいあったのだから仕方がない。
 ロダンの彫刻は現物のあの全方位的な完成度の高さはあまりにもすごくて驚いた、というのが大きな一つの理由だが、漫画の方は普段何気なく読んでいるものだけに、これほどすごいのか、っと原画の迫力には圧倒された次第だ。
 ま、言語道断だと言う人用にフォローをすれば、彫刻など普段お目にかかることがなく超日常的なもの故に必然的にその完成度に対する敷居が高くなってしまうのだけど、漫画は日常の中にあってしかもそれが原画1枚でカウンターを喰らう衝撃といえようか。


 おっと話がずれた。
 そのぐらいの芸術性のあるものも存在するという話で、全てを芸術扱いするわけではない。
 漫☆画太郎のような、本人がペシミストと言うことも驚きの強烈な芸術性なども存在する。
 ドラゴン桜、アカギ、など決してうまいわけではない絵でもそれが味として受け入れられることはそれこそ独創的芸術性そのものだともいえるが、今回はその芸術的な話だけの話で済むことではない。


 芸術と判断はしなくとも、マンガには既に、海外でのコミックス・カートゥーンの主体的イメージ即ち「子供だまし」、という枠組みは存在せず日本のあらゆる内容に対し、フィクションやノンフィクションの表現されうる領域とほぼ同値化している広く多岐にわたるいわゆる文化と呼んでしまっても良い日本で確立されている一つの表現方法であり、そもそも「マンガは〜」とそう易々とひっくるめて語ることは出来ない代物になっている。
 消費物としてのイメージは少年誌に描かれるマンガだろう、子供達の影響を考えれば少女漫画の影響は大きいと言える。
 古典として扱って良いレベルの筆頭は手塚治虫の作品と言うことになる。
 しかし彼の作品一つとっても彼の医学の知識を使ったフィクションであるブラックジャックをして、今では様々な箇所でステレオタイプイメージとして確定する重要なフィギュアの一つ、「子供だまし」的な面だけではないことは誰もが認めるところでは無かろうか。
 現在では受験生は読め的に言われ続ける「あさきゆめみし」、歴史作品として自分が注目している(!)「へうげもの」、アニメ化された作品は数知れず、ドラマ化されたマンガも数知れず、である。


 和歌の技法として、「本歌取り」というのを受験生を通り越してきたならご存じだろう。
 日本の和歌の歴史はそれこそ「古事記」に載る、もしかしたら神代からかもしれないほどの歴史があるかもしれない、なんて書くと韓国5000年の様にネタ扱いだが、日本の有史以前からあったにちがいない重要な表現方法ですね。(例えばだけど古事記に載っている時点で既に恐るべき完成度、ということはその土壌が更に以前からないとつじつまが合わない)
 今は短い俳句の方が有力ですが、言の葉として長く和歌は愛されてきました・・・とかそんな説明は良いか。
 この「本歌取り」は和歌の勉強をする上でとんでもないくせ者であって、受験生程度ではそのほとんどがお手上げになりうる難関命題だったりする。
 そりゃそうだよね、その文章内、その和歌を読んだだけではその和歌の意味を理解することが出来ないのだから。
 後世になればなるほどこの「本歌取り」という手法が有力になり、結果として我々のような受験には使うけど和歌は素人レベルでいいや、的な人々に対しては結果として平安時代メインでしか出せないことになってしまう。(それでも更に故事を引用している清少納言には刮目せよ)
 なんでそんなことが起きるのか、といえば和歌というのが身近だったからだ。
 和歌を詠むために、かつての偉人達の和歌を少なからず朗読し心に刻んでいったのだろう、そういう者達が、目の前にある複雑な情景を表現する手段として共通認識のある本歌を使うことはごく自然なことだと思う。
 ま、あれだ「ガンダムで例えてくれ」的な話で理解できることも多いだろう、「このザクみたいなフォルムがカッコイイ」「カムランの様な心情だ」とか、ファーストなたとえで書いてみたが、なかなか言葉で言い尽くせない部分をそのもの、その人物を思いつけば多くを補完してくれるだろう。
 そういう高度な技法が流布するぐらいの和歌がいつの頃からか芸術扱いにしかなっていないのは、衰退としか思えないがまあそれは歌の話。
 問題はその「本歌取り」という手法の対象に、現在はマンガを使うケースが多いということである。
 「ドラゴンボール的展開」なんかは最も有名な使い方だと思う。まあこれはマンガを説明するマンガの手法だが、読んだことのない人には解らないはずのその中の登場人物を示唆した表現方法なんかが一般に使われうるのは、その浸透度がある程度以上でないと全く役に立たない自己満足に終わってしまうが、そうでないことは認めるところとなるのでは無かろうか。
 これこそが文化、という表現を使わずして何なんだという典型的な例なのですが。


 ともかく、彼の漫画に対する表現は、年齢を調べれば60というところだと思うが、あまりにもステレオタイプな内容を言い出すにいたり、彼の持つ漫画という主体的イメージはやれ「仮面ライダー」「キャンディ・キャンディ」のイメージ程度の認識であって、マジで現代人かと見識を疑う説明であった。
 「政府が殿堂に入れるかどうかを決めるのはおかしい」的な発言をしていたが、漫画の主体的なイメージがその程度なので造詣が深くないことは解るにしても、それを言うならば音楽、絵画、彫刻、書、全てに言えることでことさら漫画に特化する必要のない、いわゆる詭弁。
 よしんば政府が決めるとして、政府って言ってもその道に詳しいいわゆる専門家が決めるに決まっているのであって、選考者に文句を言うことこそあれ、政府をまるで一人格のように扱う時点でだましだまされているのが分かり切っている。


 で、最近のホットな話題にアニメーターの低賃金さにスポットを当てたNHK進行役の質問に対し、「好きでやっていることだから」「山師のようなものなので」と返す。
 つまり、真っ当な仕事ではなく趣味の範疇に金を払うな的な、一番最初の話にリンクしている物言いな訳だけど、漫画もアニメも産業だということを解ってはいない。
 そりゃ自身は適当に社会派を気取った内容を書き慣れた構図、書き慣れた絵に並べて適当に配分して終わりというパッチワークかもしれないが、ことアニメというのは分業の果てに制作される1プロジェクトで、個人で作れる代物ではもはや無くなっている。
 てか、アニメはその出現当初からすでにそう。
 手塚治虫氏が非常に非難されうるその1点に挙げられる内容で、アニメに対する評価の低さを助長してしまった格安の請負であって、その悪しき慣習が未だにメディア業界に席巻していることが問題の根底にあるそうだけど、非常に深刻な問題だと思う。
 他方給与の話で言えば、そのメディアを流すいわゆる中間管理職のような輩のとる給与は莫大であり、その再配分は出来ないかなんて言うのは切実な問題だと思うね。
 昔の人気アニメでもその制作費には地獄を見る話をよく見るが、そのしわ寄せがアニメーターその他に来ているのはいつものことであって、その実情の片鱗も知らない人間に「好きでやっていることだから」と一刀両断にされるのは我慢成らないだろう。
 補助金を出すとかはまた別次元の話であると思うが、人件費削減のためにアルバイト、韓国・中国へ送って・・・・てな話だが、何らかの救済が行われれば日本のアニメ業界ももしかしたら別の変革が伺えるかもしれない。


 さて、やくみつる氏のいわゆる「釣り」に見事に引っかかって考えるハメになったのだが、昔から自分が思っていることに、日本人はとかく文化に対する保護の姿勢が薄い、というのがある。
 例えば、市役所が新しく建て替えられる、その中には「なぜか」意味不明なオブジェが飾られることになるのだが、これは一応芸術への啓蒙運動の一つとして挙げられる。
 だけど、理解できない俺が言うだけだけど、芸術の啓蒙活動を否定するわけではないが、そのオブジェの意味合いが意味不明であることが多いのだ。


 金が余ったから誰かに頼もう的な形式であったなら、人づてで名前が通っているかとおっていないかにかかわらない謎の芸術家にその制作を頼み、言われるままに配置する。
 今の公務員のことだから、ま、そりゃあコネで選ばれたような屑はたくさんあるだろう。
 実際、芸術というのはその境目が明確ではないために、時として屑が芸術扱いされるとことはよくある話だ。
 雑誌の表紙で妙に芸術系のイラストが描かれている者なんかの選考はかなりひどいと言われている。昔、どんどん雑になってついには採用されなくなった男の話を見たことがあるけど、「何、雑になったけど表紙として使ったの?」ってところには正直びっくりもした。


 著名な芸術家に頼む、というのも箔を付けることに関して否定はしないが、独壇場の芸術作品は、評価が難しい故に芸術家の言いなりになることはいつものことだろう。
 複数の者を競わせるべきだとさえ自分は思っているが、ただオブジェを置いただけで芸術啓蒙をしているというスタイルを受け入れるかどうかと言えば、自分は否だね。


 で、日本の芸術のその状況をいろいろ調べるべきだとは思うのだが、まあ、ろくな話は聞かないね。
 日本の美術館はどこもかしこも小さい。国宝がある寺とか、その管理マジでしっかりやってくれよと思うけど実際は難なく盗まれ足りさえしている状況。


 例としては不適切かもしれないが、アメリカはそのアメリカ文化の期間がものすごく短い。それ故にその短いアメリカでは、アメリカで生み出された製品のサンプルが全て一つずつスミソニアンにある、なんて話を聴いたことがある。
 それこそ、時計から飛行機まで。


 他方、日本にはすばらしい文化がゴロゴロとしているけど、その保存の悲惨さたるや目を覆うばかり。
 国立図書館には発行されたほぼ全ての本が所蔵されていると聞くが、他方雑誌などでは多々切り抜かれているなど管理はずさんであり、保存の意味をなしていない。
 本ぐらいは保存してくれているので漫画はさしあたって一冊ずつはあると信じたいが、他方新しいメディアは保存されている場所がない。
 まずゲーム。


 昔のパソコンのゲームはそれこそ、プログラマー一人で作ったシンプルなものから、その箱たるやすばらしいものであれど中身はくだらないとか(悪い例ばっかり挙げるなw)いろいろあるのだけれど、個人での所有の話は聞くけどどこぞの館に所蔵されている話など聞いたことがない。
 これは昔の映画なんかもそうらしい。
 昔の日本映画を世界で最も所有しているのは金正日だといううわさがあるぐらいである。


 件のゲームの話だけどコレクター間で「俺が死んだら、おまえが俺のコレクションを受け取ってくれ」的な遺言のしあいがあるとさえ聴いている。
 実際、そのぐらいしなければ「捨てる技術!」のオバハンの言う如く、「他人にとってはタダのゴミ」扱いで捨てられかねないのだから、その言わんとすることは深刻である。


 最終的に優れた芸術かどうかを判断するのは、現世の人ではなく後世の人でなくてはならないと自分は思っているし、それで既に失われているものも多くあり(服のファッションなどは多くが失われているといって良いだろう)残せるもの残して後世の人への参考として欲しい、と思っている。


 そういう意味では、漫画の殿堂に限らず、何でも残すそれこそゴミ箱のようなでかい博物館こそ建てて欲しいというのが、自分の希望だったり。


 あ、そうそう。冒頭の医療の方が大切というようないわゆる正論に聞こえる正論はともかく、「人の生活に最も必要のない」的な発言は、人が感情のないロボットか何かだと思っているんだな、って話をして終了。
 やくみつる氏には是非、人民帽人民服、掘っ立て小屋で自炊してメディアを一つも見ることなく生きていって欲しいと思う。
 彼には、生活に役に立つもの以外のブルジョア的なものは全てゴミに等しいというファシズムをまず己からの実践を切に願う。