山椒魚 井伏鱒二

 アクアトト岐阜でサンショウウオを見たからというわけではないのですが、妙にこの短編を読みたくなって家にある古い本を漁って読んでみました。


 ライトノベルの面白さを追求する読み方をすると、この手の文学作品を楽しむのは難しいのは知ってましたが、なかなかにあっさりとしたお話でかまえて読んだ分びっくりするもんです。文学作品!なんて肩肘構えて読むものじゃあないのかもしれませんね。


 描写はとにかくおもしろい。
 「山椒魚は、杉苔や銭苔を眺めることを好まなかった。」これはもちろんサンショウウオの心情を表した文章だが、この一連の文章から山椒魚は上を見上げない、むしろ地面を這うような視線を好む山椒魚らしい動きが感じられる。それは、山椒魚を観察してわかることであって、その観察の結果から生み出した描写なんだろうなと納得させられる。無理がない。
 エビがよく笑う描写とて、それはエビのトリッキーな動きから想像させるもので生き物の観察→心理描写という点で非常に卓越した選択だ。


 ところで、苔の茂みの説明で出てくる「地所とり」って何なんだろう?グーグルでは引っかからずヤフーで検索すると4件、うち3件は「山椒魚」の引用でしかなく、残り一か所で「囲碁のような地所とりゲーム」と説明がある。
 著者が学生時代の大正12年に書いた「幽閉」が「山椒魚」のもとになっているということから、この頃、もしくはそれ以前の子供の遊びの一つだとは想像できるけど、安直に「隙間があったらそれを埋めるように入っていく」ような状況を想像すればいいのだろうか。


 さらに、杉苔、銭苔にしたって実物をそれと認識してみることはもうあまりない現代に至っては(中学理科では、代表的な植物だが)、その美しい描写も固有名詞に引っかかってしまってモザイク掛った描写にしかなってくれない。「藻の花」といって「蓮」の方に頭が行くぐらいの自然に対する造詣のなさ(水槽を触っているので今なら間違えないんだが)では作者が描いたイメージと基本パーツが違うイメージでは天と地の差が生じていたりする。
 もちろん杉苔も銭苔も見たことはあるのだけど、恐らくその凝視していた時間を加算しても自分には1時間とないだろう。そんなんではこの著者の表現の真髄を味わうことはできないわけである。そう、小説を読むって、フィールドワークが必要なんだと教えてくれたりするから面白いね。ってことで今度植物園へ行ってきます。


 閉じ込められてしまったサンショウウオと彼のまわりに現れる小動物たちの描写と主人公サンショウウオの心理描写。
 サンショウウオのイメージはもっぱらオオサンショウウオによるところだけど、こんなサンショウウオを想像すると擬人化が容易かもしれない。
 で、昔の小説、この山椒魚も例外ではなく、ほんと人生をかけて書いている気配があって、サンショウウオ、エビ、メダカ、そしてカエルはすべてに著者の人生に関わるという評論がなされています。実際、書いた時代背景がわからないと、前記で植物に関する乏しい知識から来るモザイクが話全体にも覆うように霧がかかる可能性もあってスルリと読んだだけではそれを解読しえなかったりするのが厄介なところですが、まあそれは今回はできるだけスルーで。


 サンショウウオが悲しむところから物語は始まる。
 「不注意で閉じ込められたサンショウウオ」当然強力なストレスが与えられ、物語の中で彼は「虚勢」「転化」「合理化」「優越」「投影」・・・などの様々な自己防衛が行われる。
 一度はあきらめ、自分は通れない岩の隙間から、メダカたちが整然と泳いでいるのを眺める。そのメダカの描写がまた面白いのだけど、その彼に比べればよっぽど自由な彼らの泳ぎに、不自由さを見つけ嘲笑する。
 花弁が渦に巻き込まれる姿を目を離すことなく見ている。これは限りなくなにもやることがないことを表しているのだろうか。
 エビが来て、最初は馬鹿にしているけれども自分が愚かであることにも気づく。
 ついに絶望に陥る。
 外を眺めるのは楽しかったが、カエルの素晴らしい動きに感動こそすれ、自らのみじめさに気が付いてしまう。そして目を閉じる。
 そして先だってのカエルが彼の岩穴に迷い込む。
 口論する。・・・そしてカエルが最後の一言を告げる・・・


 実はこの最後のカエルのくだり、最後のセリフを晩年の井伏鱒二自身が削除している。若い頃とは考え方が変わったのだということだと解釈されているが、それははなはだ絶望に等しいさみしさを見せてくれる。


 ブリキの切屑・・・鉱物から生物に・・・後半に従い難しい比喩が現れ自分には難しいのだけど、サンショウウオの一人芝居にもみえるその全体は、滑稽でありながらも物悲しい余韻を深く残す作品となっているねぇ。


 で、これ、今読んでみて思ったんだけど、思い切りニートとか引きこもりの話にも通じる現代性があったりするねぇ。
 閉じこもる、外に出たいけど出れない、中は狭いけど気に入っている、外のよほど自由にしている人たちを見て嘲笑する。自らを省みることもあれど目をそらす。狭い優越感に浸って虐げる・・・
 カエルとの罵り合いすら、楽しみでしかないって、かまってチャンだってことでもあるし、微妙にずれはあるけどあてはまるシーンがあって面白いね。
 

 井伏鱒二初期作品についてなら、鯉、屋根の上のサワンあたりも読んでみればその描写力を味わえるそうだ。(さしあたって「鯉」は読んだ。)
 「黒い雨」(「姪の結婚」)こそ読まなければならないのだけど、なんと俺の持ってる井伏鱒二の本は昭和41年出版の本なので年表見るとまだ新潮に連載中の小説だったという。


 余裕があったら、また何か紹介してみようと思う。