高瀬舟 森鴎外

 基本的に森鴎外は軍医として致命的なミスを犯した人間としてあんまり好きじゃないんだけれども、そのミスそのものを教訓とする意味で忘れてはならない人物だと思っている。
 脚気の話。


 それはともかく、彼の書いた作品というのはやはりクオリティが高く、この高瀬舟もちょっと読んでいると一気にその作品の中へ引き込まれてしまう。
 大した文章ではないが、でも高瀬舟を思うと必ずこのフレーズから思いつく。

高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。

 高瀬舟、というタイトルで「高瀬舟は…」と始まるからそうなるのか、それともこの一文が飛びぬけて素晴らしいのかに関してはよく分からないのだけど、やはり小説の第一文はインパクトであって、その控えめながら堂々としているこれは、全部を読み終わった後にもう一度思い出させる。
 ここからして、後世の手本なのだろう。


 そして最初の高瀬舟に関しての解説文をして、この始まりからあらゆるシナリオを想起させる。
 ちらっとしか書いていないけれども、相対死しようとして生き残った者の話だって、物語としては退屈であるかもしれないが様々な情景を思い起こさせるし、獰悪ではないと表現される犯罪にはどんなものがあるのだろうと考えさせられる。
 これから語られる話への期待感、および、読んだ後には他のシナリオを語ることもできそうだと思わせるあたり、様々なパラレルストーリー(って表現でいいのかな)が浮かぶ。
 その全体を覆うそのイメージを敢えて口にするなら、少ない行燈の光を表面だけ反射している暗い川の水、周りも何も見えず、ただ舟をこぐぎーこぎーこという音だけが響くというほっておくといつまでも無限に繰り返しそうな情景が漂っている感じである。


 その繰り返しを止めるような今回の話。
 いつもと違う。・・・


 で、さて感想に入るんだけど、まず、この庄兵衛という人の考え方が好きではない。
 喜助というのは、まあ世の中に流されてきて不幸な人生を送った者だ。そして確かに庄兵衛もまた、スケールは違えど「金銭的な」面は右から左の感覚は仕方のないところだろう。
 でも、この庄兵衛の考察は彼自身の人間的な喜びの面を考慮に入れるところに欠けている。たとえば嫁さんがいて子どもがいて、家族がいて、いやなことはたくさんあれどそれに囲まれる喜びってたくさんなると思うのだ。他方、喜助は天涯孤独と言って間違いなく、犯罪はともかくその彼に同情することすれ、「俺よりも幸福なんじゃないか」というような比較の対象にはなりえないと思うのだ。
 他方、この家族が負担だというのなら天涯孤独のこの喜助をもっと別の意味で羨むのではないかとさえ思う。
 確かに金銭的な部分でのみの比較で、幸福感に関して喜助が驚くほど謙虚な金銭で大いに感謝している姿に対して、自分はそれより大いにもらっている扶持米に対しても喜べない感覚のギャップに関心はするだろう。だからもちろん絶対に思わない感想ではないとは思わないでもないのだけど、その比較のみで判断しているところが、はっきり言えば人間性が感じられないのでやはりこの庄兵衛の感覚には同意できない。
 自分が働けなくなったら、とか未来への不安を比較した際、どこまで行っても満足を得られぬのだろうというスパイラル感に関しては、これが言いたいのだろうなという作者の意図は感じられるのだけれども。


 さて後半の喜助の数奇な運命についてだけれども、これには感心してしまう。
 確かにこのような人生を送ってきたのなら、このような人間が形作られる感じがする。ものすごくしっかりした人間性を感じさせる。
 そしてこの死にゆく、傷を負った弟の表現などは、凄い。
 その弟の様子に対する表現に医学的な知識の裏付けがあることを感じてしまう。きっと鴎外自身が軍医として見てきた患者の様子を思い起こして記述したのだろうと確信させる。