体罰はいかん。

 教育現場に於いて体罰を使ってはいけない。
 これは、精神論とかそういうものではなく法律に沿って使ってはいけないものなのであります。


 教育現場に於いて体罰賛成ですか?否ですか?
 の質問というのは、超法規的な内容を含む問題であり、教育に携わる者としてこれに、まして「賛成」なんて言うことなんて言うのは、「俺は法律では縛られないぜ!」とアナーキーな発言をするのとほとんど同義になりますので、体罰に賛成と声高々に言う人って言うのは、アホか無知しかいないことになります。


 が、敢えてそのアホになって体罰の完全禁止の問題点を挙げてみましょうか。


 まず、教育現場に於いてなんと!、教師による懲戒、いわゆる罰を与えることを法律で認めています。
 つまり、体罰じゃない罰を、もちろん「適宜、濫用することなく」与えることは基本的にOKになっているわけです。


 この罰の内「体罰」だけをピックアップして完全禁止にしました。
 他に考えられる罰としましては、口撃(罵倒・偏見助長など)、労役、査定(成績評価、および脅迫)、ニグレクト、追放そして刑事罰、と意外と多彩な技が考えられますが、体罰と比較してこれらが「生徒の健全な発達が歪められることのない」罰なのか、といわれればはなはだ疑問ですね。


 おっと、先に断るべき内容としては過度の体罰を推奨するアホはアホの中にもいません。
 即ち、生死に関わるとか、障害の残るような罰、その後何ヶ月も影響が残るような身体的な攻撃などというものは罰のレベルを超えた暴力であり、それらを対象として話をした時点で体罰を語る意味が瓦解しますので、その辺は考慮に入れるべきでしょう。


 もちろん、上記の体罰以外の懲罰についても「生徒の健全な発達が歪められることのない」配慮はなされており、濫用は当然法律違反になることになります。「合理的な限度をこえた懲戒」は刑事的処罰の対象となり得ます。
 しかし体罰についてはこの枠が狭く、「体罰」と判定された場合、刑事的処罰の対象と成り得る禁止事項であり、その多寡「濫用か否か」を問われることなく「体罰」判定でアウトになるというダブルスタンダードを認めています。
 それは、ビンタ然り、頭にげんこつ然り、鼻つまみ然り、となりえます。


 しかし、その「体罰」の全てが「生徒の健全な発達が歪められる可能性がある」と考えるのは早急ではないかと考えるのです。
 健全な発達というのは、社会生活を人並みにこなせる人間になるようになることを意味するのでしょう。
 しかし宿題を忘れた場合にげんこつを喰らわすことが「生徒の健全な発達が歪められる可能性がある」と考えられることが驚きではないでしょうか?
 むしろ、それによる成績の低下により(いわゆる平常点、という奴ですね)評価・士気が下がる弊害の方が大きくはないだろうか?


 人格攻撃も濫用をしなければいいのか?
 この場合決定的な言葉「死ね」「でてけ」「おまえはいない方が良い」など、これらを発言した時点でアウト判定が付くのは間違いないですが、そんな決定的な言葉を使わなくとも、子どもを傷つけることはできます。
 進路の決定が差し迫る子に成績に影響を与える方がその後の未来を傷つけはしないか?
 その適用範囲は難しいが体罰に比べ被害が少ない気がするのだが・・・


 他はさておき、
 まず「体罰」の有効性は即時性と持続性にあると考えられる。
 即時性とは、その場で罰を与えることが出来るため、非常にわかりやすいこと。
 持続性とは、罰による恐怖を与える効率が高いためにルールを守らせる率が高まることが挙げられるのだが・・・
 この二つめの効用こそが実は体罰のメリットと問題点を含んでいる。


 そもそも体罰による強制とは即ち「恐怖による支配」という構図であり、実は教育上で考えて「最も好ましくない」状況で統制をしていることになる。
 教育を受けるべき場所で恐怖を与えられる必要などそもそもありません。
 彼らの成長にあった学習をして頂く機関が学校であり、隷属を強いる場所ではないのです。
 しかし、その強制力は体罰に限ったことではないこともまた事実でしょう。
 「生活指導の先生」なんてのはたいてい人格的に迫力のある人物がなり、学年全体に「睨みを効かせて」荒れないようにする役目も、残念ながらあります。


 さらに理想を振りかざし「恐怖による支配」を捨てた場合に、何百人といる生徒を統制しうる方法論というのは確立されているのでしょうか?
 その方法がないからこその次善策である「恐怖による支配」による統制であり、それは罰と表裏一体の関係にあるわけです。


 少し見方を変えて文化的な面から考えてみると、懲罰を与えるのに体罰を加える、というのはアニメ、ドラマを見る限り日本では普通のことであると考えられます。
 家庭内に於いて体罰を加えることもまた容認されているとみるのが、今の時代ではないでしょうか?


 さて、そもそも現状で、なぜ体罰の話題をしなければならないのでしょうか?
 教育がうまくいっているのならば、こんな体罰云々など理論上の机上の話であり、だから何?程度で片づけられるべき内容ですが、現状はそうではないことが、体罰を語る意味を持たせています。


 統計的に見ると昭和50年前後の方が荒れていたようですが、今の子達の荒れ方もなかなか見るに堪えないものを感じます。
 授業を放棄するのが普通、授業中の私話は普通、メール打ち放題・・・・
 確かに「指導力」の問題だといえる面はあるでしょう。実際にそれをさせない実力を持った先生は存在するのですから。
 しかし、じゃあそれを修正するための方法論は何があるのでしょうか?うまく機能しているのでしょうか?

 
 というわけで、その一つとして体罰の発動許可というのはどうだろうか。
 今なら殴り返されるのがオチかもしれないが、それはそれ。
 説得で通用しないから力業で強制させ、修正する。
 その子達の未来を考えたら、暴れ放題にするより良いと思うのだがねー。


 「昔の生徒は授業中私語で騒がしかったが、今は静かにメールとかゲームをしてます。」
 なんて台詞を見たことがあるが、それでいいいのか?


 大学のコンピュータを使う授業なんてゲームやり放題だよな?


 でも高校、大学で体罰はないな・・・。
 多分、体罰なんか意味無いことがお互いわかるからだろうな。
 もっと怖いことは別の方法で与えうる、ってところか、それとも叱る必要がないからか。
 諦観ってやつかね。