http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/katei/news/20060121ddm013100126000c.html

 ◇「私の場合」を募集


 手紙は東京都内の男性から寄せられ、永六輔さん(72)が「びっくりする手紙です」と、次のように紹介した。


 《ある小学校で母親が申し入れをしました。「給食の時間に、うちの子には『いただきます』と言わせないでほしい。給食費をちゃんと払っているんだから、言わなくていいではないか」と》


 番組には数十通の反響があり、多くは申し入れに否定的だった。あるリスナーは「私は店で料理を持ってきてもらった時『いただきます』と言うし、支払いの時は『ごちそうさま』と言います。立ち食いそばなど作り手の顔が見える時は気持ちよく、よりおいしくなります」と寄せた。


 一方、母親のような考え方は必ずしも珍しくないことを示す経験談もあった。「食堂で『いただきます』『ごちそうさま』と言ったら、隣のおばさんに『何で』と言われた。『作っている人に感謝している』と答えたら『お金を払っているのだから、店がお客に感謝すべきだ』と言われた」との内容だ。


 また、申し入れを支持する手紙も数通あった。学校で「いただきます」を言う際、手を合わせることに「宗教的行為だ」、と疑問を投げかける人もいるという。


 永さんは、中華料理店を営む友人の話を紹介した。その友人は「いただきます」と聞くとうれしいから、お客さんの「いただきます」の声が聞こえたら、デザートを無料で出すサービスをした。後日、永さんがサービスを後悔していないかと尋ねたところ「大丈夫です。そんなにいませんから」と言われたという。

給食費を払っているから、子どもにいただきますと言わせないで」
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/news/1137833040/
給食費を払っているから、子どもにいただきますと言わせないで」2
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/news/1137837653/
給食費を払っているから、子どもにいただきますと言わせないで」★2
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/news/1137837556/
【社会】 「給食費を払ってるから、"いただきます"と言わせないで」 ラジオで大論争★3
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1137860274/
【社会】 「給食費払ってるから、子供に"いただきます"と言わせないで」と母…ラジオで大論争★4
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1137865303/
【芸能】永六輔のラジオに「給食の時間に「いただきます」を言わせないでほしい」との手紙★3
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1137852163/
【芸能】永六輔のラジオに「給食の時間に「いただきます」を言わせないでほしい」との手紙★2
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1137844649/
【芸能】永六輔のラジオに「給食の時間に「いただきます」を言わせないでほしい」との手紙
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1137835327/
【社会】 「給食費払ってるから、子供に"いただきます"と言わせないで」と母…ラジオで大論争★7
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1137892277/

 ということで2chでも大論争を呼んでいるこの議題・・・
 しかし、いつもは悪のすくつ(atokだと変換できる)といわれる2chの主な論調は、非常に道徳的な、方向で話が進んでいます。
 煽りもあまり出ていない模様。
「おまえら、まともな意見を書き込む奴が多くてうれしい」
とか何とか書いていた奴がいたが、マジでそう思った瞬間であった。


 おれが、子どもたちによくする話の一つがあるのでそれを書き込んでみようと思う。

 俺のばあさんが、ご飯を食べるときに「ありがたい、ありがたい」としきりにご飯に感謝して手を前に合わせてこすってから、ご飯を食べていたことを思い出すんだけど。
 これをみんなはどう思うだろうか。
 多分、「ふーん」とも思わないことだし、「年寄りのやること」なのであるから別に自分には関係ないのだろう、と思うのだろうか。
 確かにおいしいご飯にありつけることってのは、昔なら大変だったかもしれないので、毎日おいしい食事を作ってくださる農家の人たちへの感謝の言葉ってのはあってもいいんじゃないかとか・・・
 でもそれって、本気で思える感謝の気持ち?


 もう一度書いてみると、おばあさんでも誰でもいいんだけど、ご飯を食べる前に「ありがたい、ありがたい」とか「いただきます」とか誰にでもない感謝の言葉を言うことって意味があるんでしょうか?ってこと。
 宗教的な意味合いを持つ儀式・・・なのだろうか。つまり形骸化した昔の作法でしかないと・・・


 さて、ここで、中学生高校生なんかに共通する目標があると思うんだけど、それは一人暮らし。大学生になったら一人暮らしをする奴も出てくるだろうし、社会に出たら一人で暮らすことも多くなるだろう。
 一人暮らしのポイントは、何でも自分で好きに出来ることなんだけど・・・、はて?本当に一人暮らしなのかな。
 一人暮らしをするってのは、ステイタスとして一人で何でもやる、自分で洗濯をして自分で食事を作って食べる・・・すべてを一人でまかなうことが基本になると思うんだけど、じゃあ、一人暮らしの時ってそんなに他の人に世話にならずに生活しているんだろうか。


 もう一つ、世の中は、特に日本では都市型社会になっている。都市型の反対は農村型で、今回強調したい部分は、農村型と都市型での周りの人との親密さの違いである。
 まず農村型の話を考えてみると、農村では住んでいる人たちが皆たいがい顔見知りである。そして農業などを生業とする手前、様々なことをみんなで協力しないと生活が成り立たない社会である。
 昔の村八分がいかに厳しい措置だったかを考えてみればその互いの協力関係に必要性がわかるであろう。
 そして、たとえば自分の農地を整備するのに隣近所に手伝ってもらったりするし、そのお返しといってはなんだけど、近所の人の手伝いだってする関係にある。
 このとき、当たり前の話だけど、手伝ってもらうことに対してねぎらいの言葉をお互いに掛け合うことは至極自然であることはいいだろう。
「今日は手伝ってくれてありがとう、今度はあなたのところだね」
 知り合いであるから、コミュニケーションの一巻になるし第一目の前にいる人に手伝ってもらうのだから感謝の言葉をかけるのは当然と言っていい。


 では都市型社会ではどうだろうか。
 特にマンションなんかだと隣近所にはいつ引っ越してきたかもわからない見ず知らずの人がいて、すれ違うときにも下手をすると挨拶すらしない。顔を見てもどこに住んでいる人かなんて知るよしもないのが現状。そして、一人で生活をするのに隣近所の援助を必要とすることが少ない。
 隣近所との関連は薄く、従ってお礼を言う機会も少ない・・・


 さて一人暮らしの話に戻ってみよう。
 一人暮らしって、本当に一人暮らし、すなわち、誰の世話にもなっていないのだろうか。
 洗濯をしてご飯を作って食べる・・・
 確かに普通に生活するうえで、他人の力を借りていないような気がするが・・・
 もうちょっとグローバルな目で見てみたい。


 もう一度農村社会を引き合いに出そう。たとえば白川郷の合掌造りにおいて茅葺き屋根の張り替えには「結い」の寄り合いの約束で周辺住民が手伝って初めて屋根の張り替えができあがる。彼らの生活は一人暮らしというか一世帯暮らしというべきなんだろうが、一世帯だけで生活がまかなえるモノではなく、このような周囲の助けを必要としているモノでもあるわけだ。
 一人で暮らすと言っても、どうだろう周りにあるもの自分一人で出来たものってあるだろうか。
 まず住居。まさか自分で作ったところにすんでいる奴なんかこの現代社会、いるわけはあるまい。
 様々な家具、服、食料・・・確かに買ってくると言う契約によって手に入れているのだが、少なくとも自分で作製採集したモノだけではないだろう。
 電気やガスが流れていることだって、自分が流してくれと頼む契約がなされているわけだけど自分の力で出来ることってすごく少ないはずだ。


 つまり、一人暮らし、といってもそれは自給自足ではなく、足りないモノは誰か他の人から買わなければ成立しない生活なわけだ。
 で、たとえばその作った人が見える相手だと、感謝の言葉も言えるのでしょうが、基本的に供給している人たちとの接点は各個人にはないわけで、感謝の対象なんていうのはそれこそ誰だかわからない。
 たとえば電車に乗ったときに横に臭いおっちゃんがいたとする。はっきり言ってこんな奴とは関わり合いにはなりたくないかもしれないが、しかし彼は自分の生活に必要な水道やガスを管理している人かもしれないし、服やら家の設計をしている人なのかもしれない。
 隣近所の人が誰かいなくなっても、都市型の社会は何も困らないが、公共性の高いモノに関わっている人たちや自分の趣向の方向にあるモノに関わっている人たちがいなくなると実は突然に生活が出来なくなってしまうのが現代社会の特徴。


 あと感謝の言葉の意義ですが最近は目の前にいて、何かやってもらっても感謝の言葉を言わない輩も多いのですがコレは論外として、たとえば、家に来て何かを修理してもらったときに、代金を払うのは当然として感謝の言葉をいうのは普通にすること。
 だけど、一方で、確かに誰かの世話になっているんだけど誰かもわからない人に感謝の言葉は言うことは出来ない・・・
 そこで、最初のおばあさんの感謝の祈りですよ。


 食べ物を食べるときに、感謝の言葉というかまるで神にも祈るように「ありがたい、ありがたい」と手を合わせる。
 コレをご飯を作ってもらった人、作物を作ってくれた人など直接的に感謝する相手を食事に対応させるのは簡単ですが、もっと広く常日頃自分の生活に関わってくれている見ず知らずの他人の活躍に感謝の言葉を言っていると解釈すると・・・


 実は、この誰に対してでもない感謝の言葉ってこの世に対してもので、電気が流れてくること、テレビが見れること、温かいご飯が食べられることなどすべてに対して感謝することが出来る気がしない?
 そして、それこそが現代の感謝の言葉の最先端なんじゃないの?


と自分は思ったんだよね。


 自分がこうして幸せに生きていける。
 直接的に世話になった人に感謝の言葉をかけるのは当然だけど、今こうしてタイピングをしている間にも、確かに契約でお金を払っている商売相手でしかない人もいるけど、それ以外にだってお世話になっている人はいる。
 一人一人に感謝の言葉は言えないけれど、こうやって1日一度でも感謝の気持ち、あるいは現代社会においての他人とのつながり、目に見えないけどその依存度の大きさは計り知れないことに対する感謝を感じてもいいんじゃないかと思うわけ。


 自分一人で何が出来るのかと、自分が人のために何が出来るのか、そして他の人が自分に何をしてくれているのか、それをグローバルな視点で見れると、結構世の中いいところだなと思えるよね・・・・


 で、作物や天候の話まで含めてしまえば、とたんに神懸かってる宗教の話に聞こえるかもしれないが、天候が良好であるから、お日様の恵みにさえ感謝はしたくなったりもするんだけど・・・

てな話・・・


 まじっさいのところ、今回の永六輔さんの手紙には「金払ってるんだから」「いただきます」という感謝の言葉はいらないってんだから、この話を理解してもらう前提が崩れているんですがね。


 お礼の言葉を金銭授受の代償と等価だと考えて、
「お金を払っている」=「感謝の言葉なんか無用」
なんて言うのはなんだか情けなくなってしまった。


 2chでも・・・いい?あのモラルゼロの便所の落書きのメンバーといわれる者達でも、おかしいと言っているこの手紙の内容、コレが議論になるってのは悲しすぎますね。ついでに永六輔さんさえも「疑問に思っていた」そうで、宗教的な儀式ねぇ・・・。日本人は多分に宗教的な儀式に疎いけど、こういうくだらないことには敏感な者が多いね。永六輔さんしかりだわ。仮に宗教行事だったらどこがいけないのかという思考が足りていない。


 仏教っぽいから信教の自由に抵触?「何々っぽい」で疑問を感じるなら、世の中のあらゆる慣習がすべて宗教行事と扱われることになりその疑問の対象でしかないでしょう。クリスマス、大晦日、元旦はもとより、端午の節句、こどもの日、七五三、土用の丑の日・・・
 いまや日本の三大宗教祭りであるクリスマス、大晦日、元旦。
 「いただきます」なんてくだらない例を挙げて「宗教っぽい」を非難するなら、まずこいつらから非難してみろと。


 その他、日本の国の定めた宗教行事ではないのだが、日本だけの慣習なんてのはそれこそ腐るほどあって、逆に各地域にある祭りなんか宗教そのもの。


 確かに、その信者でもないのに他宗教の行事に参加することはいいのか悪いのか、という是非は確かにある。
 その宗教を信じている人たちに対して冒涜であると。
 そういう失礼な態度で関わる内容ならば確かに見方は変わるのだけど、実際には「宗教」そのものではないし、むしろ形式でしかないものにかみついているにすぎないのが「宗教っぽさ」に対する否定。


 今回の場合、少なくとも日本の宗教行事に定めらてもいない、つまり、日本の国に規定された宗教団体の行事ですらないものに「宗教臭い」という理由でやめることの是非を考えたりする。
 即ち、宗教ですらない「宗教臭い」物は「ある種の人間」にはやりたくないモノであるらしいわけだが、なぜ「宗教臭い」物をやりたくないのだろうか。


 たとえば、
 人の家に上がる時に靴をそろえてから行く。
 扉を開けるときに、向こうに人がいないのか確認するために一度とんとんとたたく。
 電話をかけるときに「もしもし」という。


 これらは、もちろんその礼儀作法的な、マナーという理由が存在することはわかるであろうが、こうでなくてもいいことをわざわざ規定してしまってはいないだろうか。
 これ、知らない人から言わせれば、「他人に強制された」「理由なき」「宗教臭い」「慣習」でしかないものばかりなんだわ。


 でも人と人との関わりの中で、すでにここは日本であって日本の慣習という「宗教臭い」モノを否定するのは、それこそマナーの問題、そしてコミュニティにおけるその人の存在の問題なんだ。
 敬虔なキリスト教徒の家に行ったら、食事の前に神に感謝するシーンに出会ったりする。そこで自分がどのような態度をとるか、というのはマナーの問題で、不遜な態度でさっさと食うか、自分流のいただきますをするか、あるいは周りに倣ってお祈りをするか。


「ご飯を残してはいけない」なんてどうだろう。


 都合よく、「日本は裕福でアフリカには食えない人がいるから」「残すなんてことは冒涜」とか、こんな考えもまともな理由に聞こえるかもしれないが、俺に言わせればやっぱマナーの問題なんだわ。
 後付でもっともらしい理由をつけてもむなしいだけ。


 そもそも「残すのがいけない」ということからして科学的根拠はどうあれ「宗教臭い」くだらない議論だなのだ。その人が残したものを、もしかしたらありがたく食う巡回探職労働者の方だっているかもしれないなんて考え方もあるんだが、地球環境に優しいからとか、おそらく抜かすんでしょう。この地球環境に優しいもものすごいくせ者なんだ。やっていることの中には確かにエコロジカルなものはあるんだが、エコロジーの実現をすると盲目的に信じられるクリーンエネルギー風力発電とか、全然地球に優しくないことに気が付いたりもしてほしいんだが・・・
 もし本当にエコロジカルなことを考えるなら、残すような量の食事を作っちゃいけないのよ。作る方に問題があるし、頼む方に問題があるわけ。


 もちろん「残すのがいいこと」とか「地球環境は関係ない」とは言っていないよ。
 考え方一つでひっくり返るような「宗教臭い」理由で「宗教臭い」内容を肯定して何が面白いのかと思うわけでさ。
 この場合マナーの問題で、たとえば作ってくれた人に対する礼儀とか、そういう良心に従った理由の方がもっとまともなわけ。
 無駄に科学的な根拠を掲示するから突っ込みが入るわけで、これはマナー、すなわち宗教的な範疇に入る理由なんだわ。
 もちろん「作った相手のことなんか関係ない」という考え方が出た時点で、「残してはいけない」議論は混迷の度合いを深めていくんだが……


 ともかく、人々を規定するのが結局マナーという理由不明のモノでしかなくなってきて、コレに理由付けをするなんてのは詭弁甚だしいというのが自分の考え。合理的な理由をつけるというのはもちろん正しい場合もあるのだけど、そのやり方が強引だと反感を感じることってあるし、後で違和感を生み出してしまうことだってある。
 「なぜ人を殺してはいけないのか」議論なんだよね。理由なんかない。当然のレベルの話。
 もちろん今の子どもを見ていれば、正直基本的なマナーを守れる子は希であるとも言える世の中なので厄介なのですが、ささいあたって「宗教臭い」からやることに疑問なんて言うのはまあ、思考停止そのものだ。


 「出所が仏教に見えるから」という意味で怪しむ。すでに慣習化しているのは既成の事実であること、および、「出所が仏教」というだけで非難し始めたらお茶は飲めなくなります。お茶は仏教と非常にかかわりのある飲み物ですから。
 加えてお茶の作法なんか、カトリックの杯を磨く儀式そっくり、というか模倣っぽいぞ。
 そりゃあ、曽我氏が物部氏に勝ってから日本は仏教の影響を受けているんだから他にも仏教臭い物なんか山ほどある。
 それらの中で「目に入ったもの」だけ非難しても仕方ないんですが。


 てか、こういう「宗教だから」ダメ思想って、鬼畜米英の旧日本軍、敵国の言葉は使うな、と同じ思考じゃんかw
 あのおかげで車を運転できる輩が少なくて戦争で難儀をしたり、野球の用語をすべて変えたり言葉狩りがまかり通るって・・・アホな話だったと思うんですが。


 まあ宗教嫌悪はオウムの影響かとも思います。でもそれが根強くあるってことは根本的な日本人のモラルの崩壊を意味しているんでしょうねきっと。
 だからこれからは、アメリカみたいに人情の必要のない世界へとだんだんと近づいていくんでしょう。ネットの社会がすでにそうですが、はみ出たモノは排除。
 排除されたくなければ、ルールは守れ、ってな感じに世の中はなっていくんでしょうね。


 最後に、コレ関連のスレ、2chではすでにいくつも立てられているので追いかける気力もないですが、その中のどこかにあったカキコで

 「いただきます」を廃止して笛の合図と同時に給食を食べさせていた

なんて学校もあるそうで、それがいいと思ってる馬鹿もいると思うと悲しくなりますね。


(一部文章を書きくわえました)